北里 柴三郎 | きたさと しばさぶろう | 1852,12,20 肥後(熊本県)生 | 1931,6,13 群馬県中之条没 |
細菌学者・医博・男爵 1871年新設の熊本医学所病院に入学。校長の仏人ファン・マンスフェルトにその才能を認められる。1883年東大医学部卒。内務省衛生局に出仕。1884年長崎にコレラが発生した時、顕微鏡で細菌の存在をを認めたと伝えられる。1885年ドイツ留学。コッホの下で研究。優れた研究を発表し、欧州に名をしられた。中でも1890年ベーリングと共同のジフテリア及び破傷風の血清療法は画期的発見であった。その他結核の研究等細菌学の歴史に巨歩を留めた。1892年帰国。ドイツより教授の称号を与えられる。長与専斎、福沢諭吉等の後援により伝染病研究所を設立、所長となる。日本における細菌学、血清学の基礎を築いた。門弟には志賀潔、秦佐八郎など歴史上の人物がいる。この研究所が1914年文部省に移籍されたので辞任。独力で北里研究所を設立。1917年慶応大学医学部創立の際、学部長兼附属病院長となり、1928年辞任。1923年日本医師会会長。貴族院議員。1924年男爵。英国学士院会員。米・独・仏その他学会の名誉会員。1894年香港にペストが流行した際、東大より青山胤道、宮本淑、内務省より北里が出張し、フランスのエルザンと相前後してお互い別個にペスト菌を発見。1909年コッホ来日を迎え稲村崎に記念碑を建てた。青山墓地に葬られた。1967年没後50年を記念して北里大学が創立された。 [ 著書 ] :「微菌学」1893/「微菌学研究」1896/「北里細菌及伝染雑纂」1911/ [ 伝記 ] :「北里柴三郎伝」宮島幹之助編。 |